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「狸と瓢箪」
(第0部)[1/1]

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文永二年。西暦でいう1593年。大坂に一人の男児が生まれる。


父の名は豊臣秀吉。日本史上、最も成りながった男にして、天下人。

母の名は茶々。淀君、と呼ばれるほうがしっくりくる女性である。
織田信長の妹、お市と北近江を支配していた大名、浅井長政の血を引く娘。
天下人、秀吉に見初められてその閨に入り、子を産んだ。
これまで数多くの側室を抱えながら一人として子が出来なかった秀吉にとって、待望の世継ぎである。
これより先に、鶴松という名の男児を茶々は産んでいるが、あえなく病死している。
もはや暗い老後を覚悟していた秀吉にとって、まさに雲間から太陽が出現したかの如き出来事であった。

生まれた男児は『拾』と名付けなれた。
奇妙な幼名だが、これには理由がある。
当時、「拾われた子は丈夫に育つ。神仏の子だからである」との民間信仰があった。
秀吉は前に死んだ鶴松の事を思い、今度の子は「自分の子ではない、ただ淀君の子である」として拾い子としての体裁を取ろうとした。
神仏を騙してでも、このただ一人の息子を守ろうとしたのだ。
実際に、生まれた赤子は一度大坂城の城門前へ置かれ、秀吉の旗本がその子を拾い、秀吉に見せる、という形式まで行った。

秀吉にしてみれば、57歳になってようやく出来た世継ぎの男児である。
まだ言葉も喋れるこの幼子に「お前には大坂城をやるぞ」と言ったという。
それほど、秀吉にとってこの子は待ち望んだ、諦めかけていた希望の子だったのだ。


例え、周囲の噂で「太閤様(秀吉)の種ではないのではないか」と囁かれていたとしても。
当然彼の耳にそのような囁きが聞こえることはなく、ただただ、この子を愛した。
老い先短い身を削ってでも、この子のために全てを残してやろうとあがき始めた。


―――――幼名、拾。

―――――後の豊臣秀頼である。


狸と瓢箪 〜序章〜


拾―――つまり秀頼に関係のある事件がおきたのは慶長3年(1598年)のことである。
実父、豊臣秀吉が亡くなったのだ。
とはいえ、この時、秀頼はまだ5歳。
父が亡くなった、という事は理解できても、その周囲で起こっている政治的な動きはまるで理解していなかっただろう。

豊臣家内部の武断派と官僚派の対立。それを煽り、利用していく徳川家康という男。
ついには石田三成の失脚、上杉景勝に謀反の疑いありとして家康が挙兵。
大坂を留守にした隙を突くように石田三成が大坂に戻り家康討伐を掲げて挙兵。
世に言う関ヶ原の戦いへと突入することになる。
この間、秀頼は非常に微妙な位置にいた。
家康は豊臣家に弓引く上杉を討つ事を名目としている。また、豊臣家の家政を壟断している三成も反逆の徒として討つと宣言している。
三成は家康を弾劾し、豊臣家から天下を奪おうとする大悪人であるとしてこれを討つと宣言している。

・・・秀頼は双方から「この戦いは秀頼様のため」と担がれている立場であった。

関ヶ原の戦いについてはここでは割愛するが、結果として三成は敗れ、家康は勝った。
武断派を纏めて味方につけた家康率いる東軍は、官僚派である三成ら西軍を破った。
石田三成、小西行長らは捕らえられ、処刑された。

この後の論功行賞は当然ながら家康主導で進められ、家康に味方した武断派の大名達は軒並み加増した。
しかし、大きな領土を与えられながら、西国へと転封となり、重要な地である京都周辺や東海道は徳川家譜代の大名や家康の子たちに与えられた。
これにより天下人であった豊臣家はその領土を70万石程度の一大名へと地位を落とされた。
一方、徳川家は関ヶ原前の250万石から400万石へと加増され、さらに佐渡金山・石見銀山などの主要な財源をも手にした。
これにより徳川家による権力掌握が確固たるものになり、徳川と豊臣の勢力が逆転する。

ここから豊臣と徳川の、奇妙な関係が始まることになる。


慶長8年(1603年)、徳川家康は朝廷より征夷大将軍を任じられる。これにより家康は幕府を開く権利を公的に認められたことになる。
家康は江戸城の普請を始め、ここに徳川幕府を開いた。
徳川家による武家政権の始まりである。
秀頼は、実質この時から権力の座から外されたと言えるだろう。


しかし奇妙なことに豊臣家は徳川家に臣従はしていない。
豊臣家としてはあくまで徳川家は豊臣家の臣下であり、こちらが主筋である、との認識で振舞っていた。
当然、家康としては面白くない。だけでなく、困る。
家康にしてみれば、すでに両家の力は隔絶しており、自分は将軍となっている。
当然、豊臣秀頼は臣下の礼を取り臣従するのが筋である・・・と思ってはいるが、こちらからそうせよ、と露骨には言えなかった。
『簒奪』というイメージが世間に定着してしまうのを恐れるためであった。
あくまで、豊臣家のほうから臣従するのが望ましい。
そこでまず、家康はたった二年で将軍職を息子の秀忠に譲ってしまう。
これは内外に「今後、征夷大将軍は徳川家が世襲する。当然天下も徳川家が世襲する」ということを示したのである。
家康は秀吉の遺言もあり2代将軍徳川秀忠の娘千姫を秀頼の嫁として娶らせる。
「千の婿殿も久しく見ておらぬ。久々に逢いたいものよ」との口実で秀頼に上洛を促すが、生母の淀君の強烈な反対あってこれは頓挫している。
やむなく家康は息子の一人を大坂城にやって秀頼と面会させているが、内心は苦々しい思いであっただろう。
「今、秀頼が上洛し挨拶に来ればそれで世間は豊臣家も徳川家の天下を認めた・・・となる。それが豊臣にとって最善の道であろうに」
家康にしてみれば様々に手を回してお膳立てをしてやっているのに、まだ自分達が主家・主筋である、との理論を振りかざす大坂の輩には辟易としていた。

慶長16年(1611年)、秀頼は、「正室千姫の祖父に挨拶する」という名目で、二条城で家康と会見する。
これは、加藤清正・浅野幸長ら豊臣子飼いと言える大名達が必死になって淀君を説得した結果である。
彼らにしてみれば、最早天下は徳川家のものである。このまま意地を張って徳川家と豊臣家との戦争ともなれば、自分達の立場が苦しい。
だから上洛して家康に会う・・・というこの行動を持って、どうにか丸く納めようとしたのである。

しかし、大坂の淀君が徳川家に臣従するなど認めるわけもなかった。二条城でも会見も加藤清正らが秀頼を命に替えても守るとの約束で認めたまでである。
つまり秀頼は、形式的には依然として家康の主筋だったわけである。あくまでも形式的には、だが。

しかし、この頃には秀頼は19歳である。当然、元服も終わっており、これからいよいよ人として盛んになっていく時期である。
一方で家康はすでに老齢であり、どう考えても秀頼よりは先に死ぬ。
未だ天下を取ったとは言え、その組織は完成しておらず、また豊臣家が臣従せぬ限り、他の大名達へも微妙な影響がある。


あくまでも臣従する気がないと言うのであれば。
自分が生きている間に禍根は全て断ち切っておくべきだ。

家康はそう考えた。

この二条城での会見後、家康は側近である本多正純らに工作を命じる。
「豊臣家を攻め滅ぼす、大義名分を得よ」と。
彼ら側近は大義名分を探すと同時に、豊臣家の力を削ごうと画策した。
秀吉の追善供養として畿内の寺社の修理・造営を行ってはどうか、と大坂方へ図ったのである。
膨大な寺社の修復や大仏の建造などに金を使わせて、豊臣家に残る力である金銀を枯渇させようとしたのである。
しかし、85もの寺社の修復・造営を行ってなお、豊臣家には尽きることのないと思うほどの金銀があった。
側近たちはむしろ大義名分を急ぎ得て、一気に降伏させて金銀を接収するのが良い、との結論となった。
すさまじきは豊臣秀吉がその手に握っていた金山・銀山から出る金銀と交易・商売で儲けた財の巨大さであった。


慶長19年(1614年)、世に言う方広寺鐘銘事件が起こる。
梵鐘の銘文が徳川家にとって不吉なものである、と言いがかりをつけたのだ。
「国家安康」は家康の文字を分断している、とし「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願いその反映の元で臣達が楽しむ、という意味だろうと言いがかりをつけた。
大義名分としてはかなりのこじつけというか、言いがかりだが、これを切欠に豊臣家と戦に及び、滅ぼすことが家康の目論見である。
こじつけだろうと言いがかりだろうと、隙を見せたほうが悪いのだ。

家康、そしてその側近達はおそらく大坂から慌てて片桐且元が駿府にきて弁明すると読んでいる。
そこで方広寺の件ではうやむやにして、「要は世間は豊臣が徳川に弓を引こうとしていると考えている。これをどうするか」と脅すつもりである。
片桐且元は豊臣の重臣であるが、小身の大名であり、家康に逆らうような気概もない。おそらく、どうにか平和に事を納めるためにその場で譲歩する言葉を言うだろう。
後は且元が大坂に戻るまでに、大坂城の女どもに色々と吹き込んで且元を悪人にしてしまえばいい。
淀君はせいぜい癇癪を起こして且元を追い払うだろう・・・それが結局、大義名分となる。
そういった筋書きである。
「せいぜい、且元には苦労して貰おう。なに、事が終われば加増してやれば済むことだ」
こうして罠を貼って待ち受けていた家康の側近であったが、彼らにとって意外な事が起こった。

弁明の使者として現れたのは片桐且元ではなく、大野治長であったのだ。




――――その頃の大坂城、天守閣。
上座に巨体の男が座っており、その前に若い男が平伏している。

若い男の名は木村重成。秀頼の乳母の息子であり、秀頼の幼馴染と言える存在である。
上座の男は当然、この大坂城の主、豊臣秀頼である。


「大野殿は本日には駿府に到着するかと存じます。秀頼様が自ら持たせた書状を大御所へと差し出すでしょう」
涼やかな、と言っていい風貌の若き侍は凛とした声で秀頼に語りかける。
「先日、秀頼様よりお指図のありました、四人の浪人には密かに渡りをつけております」
それに大して秀頼が声を発した。
「・・・どうだ?」
「はっ。真田殿、後藤殿、長宗我部殿はすぐにでも参陣するとのお返事にございます。明石殿はいくつか聞いて頂きたい議があるとのこと・・・」
「ああ、キリス・・・伴天連のことだろう。禁教令を解くことに問題はないと伝えてくれ」
「かしこまりました。それと、兵糧のことでございますが、堺のみならず近隣からも集めて米蔵に積み上げてございます。
 弾薬、武具、馬も順次城内へ配備しております。全て順調にございます」
「・・・そうか。わかった。世に溢れている浪人達もどんどん雇い入れよ。武勇のあるもの、知略のあるものはどんどん取り立てろ」
「承知。では」
そういって出て行く木村重成。彼にはまだまだ仕事が多く残っている。


一人、天守閣に残った秀頼は、眼下に広がる町並みを見ながら呟いた。

「目が覚めたら慶長時代・・・しかも俺はあの豊臣秀頼! 大坂の陣で負けて大坂城の蔵の中で焼死する運命って冗談じゃねぇぞ。
 くそ、あと五年早かったら、家康にこれでもかってくらい頭下げて大名なんてとんでもない、僕なんて千石でも貰って御伽集の端にでも加えてくれたら十分ですって言えたのに。
 すでにやる気まんまんじゃねぇか、あの狸爺め」

周囲に誰もいないことを確認して・・・彼は、豊臣秀頼は叫んだ。

「俺は死なねーぞ! 最低でも引き分けに持ち込んで身の安全を確保してやる!」

・・・声の割りに言っている事は小さい男であった。

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