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「聖将記 〜戦極姫〜 【第二部 完結】」
(第0部)[1/1]

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 時は春。満開の桜が視界一杯にあでやかに広がり、吹く風は確かな春の温かさを宿して、優しく頬を撫でていく。
 家族に連れられてやってきたのだろう。幼い男の子が、浮かれた様子で桜の園のあちらへ、こちらへと走り回っていた。
 陽が中天に輝く時刻、周囲には花見客が笑いさざめき、その楽しげな雰囲気が子供心を浮き立たせずにはおかないようで、遠くからかかる母親の声も、男の子の足を止めることは出来なかった。
 さらに先へと駆け出していく子供は、しかし不意に停止を余儀なくされる。
 桜の花を見上げていた青年にぶつかってしまったのだ。


 小さな悲鳴と共に子供は足を止めた。思いのほか強い衝撃で鼻を打ち、その目にみるみる滴が溜まる。
 それは鼻の痛みのせいもあったが、怒られる、と本能的に恐れたためでもあった。
 だが。
「おっと、ごめんごめん。大丈夫かい?」
 青年は子供に気付くと、膝をついて目線を合わせ、そっと髪の毛に触れてきた。
 怒気を感じさせるものは何もなく、子供は目に見えてほっとしながら、小さく頷いてみせる。
「そっか、良かった良かった。ぽかぽか陽気に綺麗な桜だもんな、はしゃぎたくなって当然だ」
 言いながら、立ち上がった青年は軽く子供の頭を撫でてから、踵を返す。
 その後姿を見た子供は、何故だか青年の背から目が離せなかった。思ったよりもずっと大きく感じる背に、惹きつけられるように子供が口を開こうとした、その時。


 ――不意に吹き寄せる一陣の風。花びらを乗せた春風は子供の視界を一瞬だけ桜色で染め上げ、そして。


「あ、あれ?」
 視界から消えた青年の姿を求めて、子供は顔を左右に振るが、どちらの方向にも先刻の優しげな青年の姿はない。
 どこに行ったのだろうと首を傾げた途端、遠くから母親の声が聞こえてきた。その声を聞くや、子供はぱっと顔を綻ばせ、元いた場所に向けて走り出す。



 後に残ったのは、去り行く子供の足音と、宙を舞う花びら、遠くから響く笑い声。
 そして、もう一つ。青年が消えたあたりから、澄んだ鈴の音が小さく、ほんのかすかに空気を震わせ――誰一人、聞く者とてなく、やがて宙へと溶けた。



 それはただそれだけの出来事。
 時を同じくして。
 世界を異にして。
 常夜の時代を終わらせる、激しくも華やかな戦いの再開を告げる、小さな小さな合図であった。



         聖将記 〜戦極姫〜 【第二部 護国の雷鳴】



「義姉様(あねさま)」
 澄んだ呼び声を耳にした戸次道雪(べっき どうせつ)は、腰まで届く艶やかな黒髪を揺らしつつ振り返る。
 そこには予想に違わない人物の姿があった。もとより大友家加判衆筆頭たる道雪を義姉と呼ぶ人物は一人しかおらず、間違えようもない。
 その人物――おなじく大友家加判衆に連なる吉弘家の跡継ぎである吉弘紹運(よしひろ しょううん)は凛とした双眸に、めずらしく困惑の色を宿しながら道雪の傍らに歩み寄ってきた。
「紹運、どうでしたか」
「は、やはり此度の仕儀、南蛮神教側により多くの非があるように思えます。角隈石宗(つのくま せきそう)殿亡き後、その所領にある寺社を半ば強引に南蛮寺院へ建てかえさせている様子」
 予想どおりの報告に、道雪は思わずため息を吐く。


「あの宣教師らしい所業ですね。石宗殿の所領を、彼の者に与えたのは宗麟様。それ自体は是非もないことですが……」
 道雪の嘆きに、紹運は同じ表情で相槌を打つ。
「角隈殿は寺社の代表として、終生、南蛮神教と対立してきましたからね。政敵にも等しかった相手の所領で、寺社を取り潰して南蛮寺院を建立すれば、勝ったのは南蛮神教であると周囲は考えるようになるでしょう」
「御仏を信じるにせよ、異教の神を信じるにせよ、皆、大友という家の大切な臣民であることに違いはないのです。対立は避けられないでしょうが、あえて火に油を注ぎ、大火にする必要などないというのに」
 ここで言ったところで詮無いことですが、と道雪は再度ため息を吐いた。
 このところ、憂いの去らない義姉の顔に気遣わしげな眼差しを向けつつ、それを払う術を持たない紹運は、悄然と俯くしかなかったのである。




 鉄砲をはじめとした西海の知識が日の本にもたらされるようになって数年。海を渡ってきた道具、知識、信仰はすでに各地で少なからざる影響を与え始めていた。
 異なる文化が、戦国という乱世でぶつかりあったのだ。当然ながら、そのすべてが良い方向へ行くわけではなかった。無論、すべてが悪しき方向へ行くわけでもない。
 それを象徴するのが、近年、九国探題に任命された大友家の隆盛と、内の軋轢であった。


 大友家当主である大友フランシス宗麟は、大名の中ではもっともはやく南蛮神教に改宗した人物である。そのため、領内には南蛮由来の建物も多く、膝元の府内に建てられた南蛮寺院の壮麗さは、南蛮人をして感嘆の声をあげるほどであるという。
 自然、府内には多くの異人が住まうようになり、港には西の海を越えてきた外国船が毎日のように訪れる。彼らがもたらす産物と情報は大友家の財政を潤し、府内の繁栄は北九州の博多津に優るとも劣らぬものとなっていく。


 宗麟が家督を継いで数年。府内の街並みに建ち並ぶ南蛮様式の建物も、すでに目新しいものではなくなっていた。大友家と南蛮文化はきわめて密接な関係を保ちながら、日の本でただ一つとも言うべき異色の発展を遂げていたのである。  




 その一方で、大友家の内部では大きな歪が生じつつあった。主君みずから南蛮神教に改宗し、さらに積極的に南蛮神教の布教を押し進めていく過程で、従来の寺社勢力と深刻な対立が発生していたのである。
 家臣、領民を問わず、御仏の教えを信じる者は多く、また信仰はせずとも寺社と何らかの関わりを持っている者は少なくない。
 彼らにとって、急激に過ぎる南蛮神教の台頭は脅威以外の何物でもなかった。くわえて、寺社の建物が次々に南蛮神教に接収され、南蛮寺院に建てかえさせられるに及んでは、反目が生じない理由がなかったであろう。


 南蛮文化がもたらした恩恵は否定できない。だが、南蛮神教の強引な布教は、古来より日の本にある寺社勢力と、それに寄り添って生きてきた人々との融和を端から放棄したものであった。
 本来であれば、それは豊後の地を統べる大友家によって掣肘されるべきものであったが、主君である宗麟が南蛮神教側の頂点に立って事を押し進めている現状では、南蛮神教側の非を糾弾できる者はごく少なかった。
 その数少ない人物の一人が、先日、病を患い、他界した。この人物には跡継ぎがなく、死後、その所領は大友家の直轄になるものと思われていた。
 南蛮神教側は、この仇敵の死を勿怪の幸いとして、主君である宗麟に新たな南蛮寺院の建立を薦める。元々、彼の地に南蛮寺院がないことを案じていた宗麟は、これを即座に了承し、一切の差配を信頼する一人の宣教師に委ねたのである。
 フランシスコ・カブラエル。
 大友宗麟に洗礼名を与え、豊後における南蛮勢力の飛躍をもたらしたこの宣教師によって、事態は悪化の一途を辿ることになる。



 ――だが、南蛮文化の到来が表裏二つの面を持っていたのだとすれば。
 政敵にとどめを刺すべく行ったカプラエルの蠢動にも表裏二つの面が存在した。この一連の騒動は、大友家にとって一つの転機をもたらすものともなったのである。


 空前の繁栄の陰に拭い難い不和を抱えながら、止まることなき大友家の歩み。
 その途上に、一人の青年が現われようとしていた。

 

◆◆



「なんとまあ。傍若無人とはこういうことか」
 俺は知らせを聞き、呆れかえって頭を掻いた。
 角隈殿の四十九日を数日後に控え、粛然と静まりかえる屋敷に、慌てた様子で寺から知らせが駆け込んできたのは、つい先刻のこと。なんでも南蛮神教の使いが、ただちに寺を明け渡すように命じてきたらしい。
 無論のこと、代わりの場所など用意されておらず、寺で予定されていた角隈殿の四十九日をはじめとした数多ある法要の都合も考慮しない。ただただ出て行け、というわけだ。
 横暴だ、と声をあげたいところだが、これに大友家当主の許可があるというから呆れざるを得ない。領民はもちろんのこと、一坊の主である住職といえど、当主の命に逆らうことが出来ないのは当然であった。


 住職がこの家に使いを走らせたのは、この屋敷の主であった角隈石宗殿の名に縋ろうとしたのであろう。角隈殿は、大友家当主である大友宗麟の軍学の師であり、同時に南蛮神教の台頭著しい豊後にあって、寺社勢力の要と目されている人物であった。
 南蛮神教に傾倒する当主も、師である角隈殿の言葉を無視することは出来ないらしく、角隈殿は事あるごとにこの手の厄介事の始末に頭を悩ませていた。
 このように記すと、あたかも寺社と南蛮神教が均衡を保っているかのごとく映るかもしれないが、実際のところ、当主を改宗させた南蛮神教の勢力を押しとどめることは、角隈殿であっても不可能であった。
「南蛮神教が十の事を企むとき、妨げることが出来るのは、精々一か二でしてな」とは、生前の角隈殿の嘆きにも似た述懐である。


 それでも、大友領内でそれが出来るのは角隈殿を除いては一人いるかいないかというところらしく、南蛮神教側にとっては厄介な目の上のコブであったのだろう。角隈殿には、それこそ様々な圧力が、各方面からかけられていたようだった。
 お家大事の戦国の世にあって、角隈殿が最後まで跡継ぎを定めなかったのは、あるいはそんな針のむしろとも言うべき自分の立場に、他者を充てることを避けたかったからなのかもしれない。今となっては確認しようもないことではあるが、俺にはそんな風に思えてならなかった。


 それは、角隈殿亡き後の屋敷の寂れようを見ているうちに、俺の中でほとんど確信になっていた。屋敷に残ったのは、俺を含めて両の手で数えられるほど。外から弔問に訪れる者もごくわずかしかおらず、それも決まって何者かの目を恐れるように、夜間ひっそりと訪れるのが常であった。
 一時の客に過ぎない俺から見ても寂寥の観を禁じ得ないこの状況が、角隈殿の立っていた場所の苛酷さをまざまざと示しているように思われた。




 俺がそんな感慨に耽っていると。
「雲居(くもい)様……」
 いまだ耳慣れない呼び名に、少し慌てながら、俺は目の前の人物に意識を戻す。
 白布で顔を覆ったその人物は、低く、くぐもった声の中に、小さな非難を込めているように思われた。
 といっても、それは出会った時からずっと続いているものなので、この頃は逆にそれがないと落ち着かない気分にさせられてしまうのだが。


 この白頭巾の小柄な少女、名を大谷吉継という。
 業病を患い、その治療のためにはるばる畿内から九国にまでやってきた――ということになっている。
 実のところそれは方便で、吉継の顔も身体も、病の影響のない綺麗な乙女そのもの。開花を待つ蕾にも似た、未成熟な美しさを漂わせていた。
 何故、そんなことを断言できるのかというと……いや、まあ一度だけ見てしまったからなのだが。水浴びしてるところを、こう、思いっきり、これでもかというくらいまじまじと。


 ……言い訳させてもらうと、故意ではない。いや、まじまじと見たあたりは弁解のしようもないのだが、そこに吉継がいるとわかって行ったわけではないのだ。
 山中をさまよいつつ、ようやく見つけた泉に駆けつけたら、たまたまそこが吉継が頭巾をとれるほとんど唯一の場所だったという、ただそれだけの事なのである。信じてお願い。
 運良く――もとい、折悪しく、その時、吉継はまさに泉に入ろうとしているところで、つまりは顔も身体も外気にさらしている状態であった。
 で、俺は当然のようにそのすべてを目撃してしまったのである。


 自慢だが、俺は綺麗な女性とは少なからず縁がある。二年ほど前までは、芍薬、牡丹、百合の花という感じの、いずれ劣らぬ佳人たちと毎日のように顔を合わせ、共に戦ってきた。
 そのため、そうそう女性に見蕩れるということはないのだが――しかし。
 吉継は、俺の知る人たちと遜色ないほどに綺麗だった。我ながら似合わないことだが、泉の妖精か、などと思ってしまったくらいである。
 ただ、もう一度言い訳させてもらうなら、優れた容姿だけであれば、俺はすぐに正気づいてその場を立ち去ったであろう。そのくらいの自制心はある。俺が呆然としながら、まじまじと吉継のあられもない姿を見続けてしまった理由は、他にあった。


 雪の精のような白銀の髪に、紅玉を透かしたような緋の瞳。
 吉継の容姿は、物語でしか逢うことのできない妖精が、現実になった姿としか、俺には思えなかったのである。


 これが、衝撃的としか形容できない、俺と吉継との初対面であった。  
 ……まあ、向こうにしてみれば、俺は単なるのぞき魔以外の何者でもないのだが。だから、今なお吉継の声には俺への嫌悪と非難が入り混じっているのは仕方ないことではあった。
 俺が故意にのぞいていたわけではない、とわかってもらえただけでも僥倖というべきであろう。弁明に口添えしてくれた、今は亡き角隈殿に感謝しなくてはなるまい。


 そんな理由もあり――いや、もちろんそれだけではなく、角隈殿の人柄や八宿十六飯の恩(庶民は一日二食)もあって、俺は角隈殿の四十九日が終わるまではと、この屋敷に留まり続けていたのである。
 その四十九日が、このままでは行うことが出来なくなってしまうとあっては、黙っているわけにはいかない。吉継もそう考えればこそ、嫌いな俺のところに足を運んだのだろう。


 吉継は、かつて大友家に仕えていた大谷家の跡継ぎなのだが、南蛮神教と一悶着あった際、角隈殿によって救われた縁で、その下で仕えるになったそうだ。
 角隈殿の薫陶を受けた吉継は、若いながらにかなりの人物で、角隈殿亡き後の屋敷の諸事を一手に司っていた。
 ただ、頭巾で顔を覆った格好は他者の警戒を誘い、交渉ごとには向かない。南蛮神教側と話し合うにしても、誰か名代を差し向けなければならなかったのである。
 俺以外に屋敷に人がいないわけではなかったが、角隈殿は不思議なほど俺を高く買ってくれていた。そのことを、吉継は知っていたのであろう。


 俺がこの屋敷に世話になってから、角隈殿が眠るように逝かれるまで十日も経っていなかった。その間、身の上話をしたわけでもない。
 この地が九国であると知った俺は、まさか自分の名がここまで伝わっているとは思わなかったが、それでもただ「筑前」と名乗るにとどめた。万が一にも素性がばれてしまえば、彼の地にいる人たちにどんな迷惑と、そして心配をかけるかわからなかったからである。
 その名乗りと、普段の挙措、言動。まさかそれだけで、とは思う。思うが、角隈殿ならばあるいは、とも思ってしまう。
「筑前だけでは、それが姓やら名やら、あるいは生国やらわかり申さぬからな」
 そう笑いながら「雲居」という姓を考えてくれた時の角隈殿の顔を思い起こし、俺はそっと頭を垂れた。




 この程度で恩の一端なりと返すことが出来るなら、と俺が腰をあげた時。
 しかし、事態はすでに終わっていた。


 駆け込んできた第二の使い。彼方から上がる黒い煙と、昼なお赤く揺らめく炎の影が告げていた。
 角隈殿の菩提寺が、今まさに炎に包まれようとしていることを。

 

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