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「真・恋姫†無双 一刀立身伝  第二話 荀家逗留編?」
(第1部)[1/2]

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 荀家。

 荀子を先祖に持つ大陸でも高名な家系で、多くの文官を輩出していることで知られる智の一族である。武門ではないために袁家は元より、曹家や夏候家のように多くの私兵を持つには至っていないが、一般的な視点から見れば十分に『有力者』と目される一族と言える。

 政治的背景だとか他の勢力との絡みだとか、荀家を荀家たらしめている要因というのは他にも多々あるが、三国志に関して齧った程度の知識しか持っていない一刀にとって、荀家を表現するのに適した単語はただの一つだった。

「君の家は、金持ちだったんだね……」

 何処までも続いていそうな重厚で真っ白な塀を眺めながら、一刀はぽつりと呟いた。漫画の中でしかお目にかかったことのないような金持ちの家が目の前に鎮座しているのである。根からの庶民である一刀に驚くな、という方が無理な話だったのだが、これが当たり前であるらしい荀?は、不機嫌な顔をして――つまりは出会った時からの表情を崩さないままに、これ見よがしに溜息をついた。

「いいこと? あんたのことは私が紹介するから、くれぐれも勝手な口を挟まないようにね」
「それはこっちからお願いしたいくらいのことだけどさ、何て紹介するつもりなんだい?」
「暴漢から私を助けた住所不定無職の全身精液男」
「最後の単語だけ否定させてもらえないかな。一応、俺にも立場ってもんがさ」

 何も知らない世界に放り出されたのだから、住所が不定なことも無職なことも否定のしようのない事実であるが、それだけに全身精液などと紹介されてはそのまま首を刎ねられる展開にもなりかねない。

 法律が整備され治安維持のための機関はあっても、処罰の仕方や刑罰の重さは現代日本とは比べるべくもないだろう。軽い気持ちのルール違反が即座に死に繋がる可能性があるのだ。荀?がこういう性質で男性不審だということは解っていても、それをそのまま口にされては命に関わる。

 言っても無駄だという予感はあったが、自分の命に関わることである。言わない訳にはいかないが、同様に眼前の少女には何を言っても無駄だろうという気持ちもあった。

 案の定、一刀の言葉に荀?は顔を顰め、

「男なんて皆同じよ! あぁ、思い出しただけで気分が悪くなってきたわ……あんな臭い塊が三つも迫ってきたのよ!? アンタに私の気持ちが解るって言うの!!?」

 詰め寄る荀?は本気も本気で、心の底から男を嫌悪している様子が感じられた。邪険にされれば怒りが沸くのが普通だろうが、ここまで突き抜けていると逆に気にならないらしい。目を吊り上げて怒鳴る荀?を見ながら、怒ってる顔がかわいいな、と一刀は場違いなことを考えていた。

「――だからくれぐれも私の言うことに口を挟まないようにね。解った?」
「お嬢様の仰せのままに」

 大人しく、畏まった物言いで一刀が頭を下げると荀?は気持ち悪い物でも見るような目を向けてきたが、反抗しないのなら取り合う必要はない、と判断したのだろう。軽く身なりを整えて、猫耳頭巾を外し背筋を伸ばす。

 そうして歩いて漸く屋敷の門が見えてきた。

 それは見上げるような大きな門で、両側には守衛がいる。守衛が個人の屋敷に……と、一刀の感覚では聊か大げさな配置に思えたが、現代におけるオートロックやテクニカルな鍵の代用だと思えば、守衛というのもそれほど可笑しなものではないのかもしれない。

 その守衛に挟まれて、侍女のような少女がいるのが見えた。一刀や荀?よりも僅かに年上そうなその侍女の少女は、荀?が気づくよりも早くこちらに気づいたようだった。荀?を見て、続いてこちらを見て、その目が驚愕でまん丸に見開かれる。

 あれは、何か良くないことだ。

 何故、と考えるよりも早く、そう直感した一刀は荀?にそれを伝えようとしたが、つい先ほど黙っていろ、という主旨のことを言われたばかりである。これで何か言ったら荀?が烈火の如く怒り出すのは明らかだった。

 だが、自分の立場には代えられない。下手をしたら死ぬかもしれないのだ。怒られるだけで済むのなら安いものだと思い直し、一刀が荀?に声をかけようとしたその時、

 一刀に遅れること数瞬、侍女に目を留め彼女が自分にとって『良くない』ことを直感したらしい荀?が制止の声を挙げるよりも早く、侍女は門の内側に向かって駆け出し、大声で叫んだ。

「奥様、街の噂は本当でございました! お嬢様が婿殿を連れて帰ってまいりました!!」

 その大音声は荀?にも当然届いた。何かを言おうとした状態で固まっていた彼女は、しばらく侍女が消えた門を眺めていたと思うと……

 ふっ、と糸が切れた人形のように崩れ落ちた。






















「あらまぁ、そうでしたの。ごめんなさい早とちりしてしまって」
「いや、こちらこそ荀?さんにご迷惑をおかけしてしまって」

 恐縮する一刀の前でさらに恐縮するのは、荀?の母――荀昆(※)と名乗る女性だった。気の強い荀?の母とは思えないほど穏やかな面差しをした女性で、口調も立ち振る舞いにも気品が感じられる。

「娘の命の恩人に失礼をいたしました。あの娘では殿方にまともなお礼も出来なかったのでございましょう? 娘に代わり御礼申し上げます。娘を助けていただき、ありがとうございました」

 言って、荀昆は深々と頭を下げる。頭を下げられるようなことはしていないと、本音を言えば今すぐにでもやめて欲しかったのだが、口を差し挟むことすら躊躇わせるような雰囲気が荀昆にはあった。これが名家の気品とでも言うのか。頭を下げるその姿すら、一枚の絵画のように美しい。

「貴方さえ宜しければ、いつまでも当家にご逗留ください。望みの物も何でもご用意致しますので」
「何もそこまで……」
「いえ。娘の命を救っていただいたのですから、これでも少ないくらいですわ」

 穏やかに微笑む荀昆はなるほど、荀?の母というのが納得できるほど強情な気配だった。決めたら梃子でも動かないというのが、ひしひしと感じられる。

 親子なんだなぁ、と苦笑を浮かべつつ、一刀は出してもらったお茶に口を付けた。飲むのに適度に温くなったお茶で、微かな甘さが口の中に広がる。

「ところで北郷一刀殿。二文字の姓に二文字の名前というのはとても珍しいですけれど、どちらのご出身で?」
「この辺りではないというのは解るのですが……何分、記憶がはっきりとしませんで」
「あら、記憶がないんですの?」
「細々とした知識は残っているのですが、こと自分のことに関することは……」

 と、いう自分で決めた設定を一刀は語る。人を騙すことに抵抗はあったが、未来から、異世界から来たという情報は、軽々に公表するべきではないと思ったのだ。助けてくれる人間のいない世界で、狂人と思われたら生きてはいけない。

 無論、いつまでもそんな世界に留まるつもりはない。固執はないが一刀の世界はあちらで、この世界は異世界だ。そのために、いずれ誰かには自分に関する情報を明かさなければならない時は来るのだろうが、それは絶対に信頼できる人間でなければならないと考えていた。

 人の良さそうな荀昆を疑うようで気分は良くないが、命がかかっているのだ。当たり前だが命は一つしかない。話すべき人間を決めるのは、人となりを知ってからでも遅すぎるということはないはずである。

「でしたら、当家の書庫をお使いくださいな。北郷一刀殿に見合うか解りませんが、蔵書量だけでしたら中々の物でしてよ?」
「お心遣い感謝します」

 あの『王佐の才』荀?の生家の書庫ならば、この世界においては相当量の蔵書が期待できる。異世界に関する記述のある書物がそうそうあるとも思えないが、絶対数は多い方が良い。

「お疲れでしょう? 侍女にお部屋に案内させます。食事も用意させますから、御用の際には侍女にお声がけください」

 荀昆が手を叩くと、部屋の隅に控えていた侍女の一人が前に進み出る。荀?を気絶させる原因になった、表の門で叫び声を上げた少女だった。

 少女は一刀を見ると穏やかに微笑み、頭を下げた。釣られて一刀が頭を下げると、荀昆が笑い声を漏らす。

「北郷一刀殿は当家の客人なのですから、もっと堂々と振舞ってくださいな」
「人に持ち上げられることになれていないようでして……何やら落ち着きません」
「庶人の出自なのでしょうか。それにしてはお召し物が腑に落ちません。そのような着物、庶人ではまず手に入れることは不可能でしょうから」

 庶人どころか皇帝陛下でも無理だろう、というのは言わない方が良いのだろう。化学繊維をこの時代で再現できるはずもないが、目立つ理由はない方が良い。

「早速で申し訳ないのですが、着物を用意していただけませんか? これよりももっと、地味なものが良いのですが」
「あらあら、そう仰られても、大抵の物はそちらのお召し物よりも地味だと思いますわよ?」
「ごもっともです」

 向こうの世界でも街を歩けば以上に目立つ制服だったのだから、この世界で目立たないはずもない。思えば、侍女の少女は荀昆に街の噂は本当だったと言った。

 つまりそれは自分達よりも噂の足が速かったということでもある。

 無論、荀?がこの街で有名人だったということもあるのだろうが、自分が目立つ白ランを着ていたことにも原因があったのだろう。見覚えのない着飾った男性を未婚の女性が連れ歩いていたら、恋人であると勘違いされたって可笑しくはない。ゴシップの少ない時代ならば尚更だ。


「荀?の加減はどうですか?」
「あれで肝の太い娘です。ほどなく意識を取り戻すでしょう。目が覚めましたらご挨拶に伺わせますから、それまでごゆるりとお寛ぎくださいませ」

 























 案内された部屋を見て、一刀は驚きで声を失った。

 実家にある自分の部屋の、優に五倍は広さがある。侍女の少女が言うにはこれでも客間の中では狭い方だと恐縮している様子だが、一刀にはも十分過ぎる程の広さだった。

「いや、ありがとう、と君に言うのは可笑しいのかな。とにかく俺はこの部屋に何も不満はないと荀昆様に伝えておいてほしい」
「かしこまりました、北郷一刀様」
「その北郷一刀様って一々言うの、疲れない?」
「疲れる疲れないの問題ではありません。字も真名も許されていない方をお呼びする時は、きちんと姓名をお呼びするよう、仰せつかっておりますから」

 当然だ、というよりは、常識だ、という物言いの侍女の少女に、一刀は小さく唸った。

 確かに、中国の歴史物で名字だけ、名前だけで呼び合っている場面はあまり見たことがない。親しい人間同士ならばまだアリなのだろうが、彼女は侍女で、自分は一応客人だ。自分個人の思いは別にして、砕けた物言いで良いはずがなかった。

 とは言え、一々フルネームを呼ばれるのは呼ばれる一刀の方も何だか面倒臭い。それだけならばまだしも、様付けだ。向こうの世界ではメイド喫茶の店員さんくらいしか使っていないような呼称が、一介の高校生に使われているのである。

 恥ずかしいというより、心が痛かった。自分がそこまでされて良いのかという思いが、北郷一刀様という呼称を聞く度に、ぐおぐおとの心中を渦巻くのだ。

「ならせめて北郷様か、一刀様にしてくれないかな」
「失礼ではありませんか?」
「俺がその方が良いんだ。頼むよ、俺を助けると思って」

 掌を合わせて拝み倒すようにすると、侍女の少女は困ったように微笑み、やがて頷いた。

「解りました。それでは北郷様とお呼びいたします。他の侍女にもそのようにお伝え致しますね」
「助かるよ。どうも落ち着かなかったんだ」
「それは失礼を致しました」

 くすり、と侍女の少女は小さく微笑んだ。ただの笑顔なのに、気持ちが華やぐ。この世界にきて初めて見た、同年代の少女の笑顔だからだろうか。

「申し遅れました。私は姓は宋、名は正、字は功淑と申します。北郷様が当家にご逗留されてます間、お世話を申し付かりました。御用命の際は何なりとお申し付けくださいませ」
「ご丁寧に。俺もそんな風に名乗れると良いんだけど、俺は姓名だけで字とかないんだよね」
「左様でございますか……奥様からは記憶がないと聞き及びましたが、忘れておられるとか?」
「どうなのかな。字と聞いても全くピンとこないから、本当にないのかも」

 取り繕った自分の物言いに、思わず冷や汗が流れる。筋書きを決めずに始めた自分の設定を通すことは、思っていたよりも緊張を強いた。侍女とは言うが、荀?の家に勤めているだけのことはあり、眼前の宋正も頭は回りそうだ。

 不自然な態度をすれば、余計に怪しまれることになる。ここに留まるならば、もっと細かい設定を煮詰めておいたほうが良いのかもしれない。

「それでは、真名もお持ちでないのでしょうか」
「真名……ってなに?」

 まぁ、と宋正は驚きの表情を浮かべた。すわ、設定の煮詰めなかった弊害がもう出たのかと一刀が身を固くすると、気を悪くしたとでも勘違いしたのか、宋正は慌てて両手を振り、

「記憶がないのであれば無理からぬことです。お気になさることはありませんわ。真名というのはその人間の、最も奥深い名前。本当に心を許した者にのみ預ける、極めて神聖な名前なのです」
「宋正にもあるの? その、真名っていうのは」
「私だけでなく、この国に住んでいる者は皆真名を持っていますよ。それとご忠告申し上げておきますが、初めて会った方にはこちらから名を名乗り、相手の名を聞くところから始めるのが宜しいかと思います。親しい間柄ですとお互いを真名で呼び合うこともあるのですが、それを姓名だと思って呼びかけてしまうと大変です。許されていない真名を呼ぶことは大変失礼なことですので、血気盛んな方ですと、そのまま首を飛ばされかねません」
「物騒な世の中だね」

 名前を呼んだだけで殺されるなど堪ったモノではないが、これを知らずにいたらいつか理由も解らずに首を飛ばされていたこともあったかもしれないと思うと、肝も冷える。

「ですが流儀を守ってさえいれば衝突など起こりようがありませんから、物騒にしても些細な問題です。それにこの程度で物騒と言っていては、文若お嬢様の旦那様は務まりませんよ?」
「宋正はもう解ってると思うけど、出来る限り火消しに協力してくれると嬉しいな」
「お屋敷の中でしたらどうとでもなりますけれど、街の方はどうにも……」
「そんなに凄いことになってる?」
「荀家の傑物として、文若お嬢様は公達様と並んで有名人ですから」

 その有名人が男嫌いとあっては噂が広まるのも早かったに違いない。噂に怒り狂う荀?の姿が一刀脳裏に浮かぶが、怒りは一方的にこちらに向かってくるのだろう。笑ってばかりもいられないのが苦しいところだった。

「私の真名、お教えしましょうか?」
「教えてくれるなら嬉しいけど、どうしてまた」
「いえいえ。どんな理由があれお嬢様がお連れになった最初の殿方ですから、見るべきところはあると思うのですよ。それに貴方は荀家のお客様で、私は侍女。お世話を申し付かったのですから、奉仕の心を持つのは当然のことと思いません?」

 小首を傾げて、宋正は一歩、一歩と近付いてくる。艶めいた雰囲気を感じた一刀は、宋正から逃れるように、ゆっくりと後退る。

「ほ、奉仕の心は大事だと思うけど、それで大事な名前を預けるっていうのはちょっと違うと俺は思うな」
「そんな物、私の気持ち一つです。お望みなら幾らでもご奉仕いたしますよ? 心と、体で」

 ぺろり、と宋正が舌で唇を舐める。それに見とれた一刀は足を縺れさせ、寝台に尻餅をついた。逃げないと、と一刀が体を動かすよりも早く、宋正はしなだれかかり、首に腕を回した。息のかかるような距離に、少女の顔がある。生まれて初めてのことに、一刀の心臓は不規則に鼓動を刻み始めた。

「北郷様が一言命じてくだされば、何でもいたしますよ? さぁ、貴方様の望みは何ですか?」
「俺は――」

 甘い声が頭の中に沁み込んでくる。自分の立場とか、今後のこととか、今してはいけないことが頭の中から煙のように消えて行き、本能が膨れ上がっていく。

 このまま勢いに任せてしまえば、どれだけ素敵なことが待っているのか。

 北郷一刀は健全な男子高校生である。人並みに性欲はあるし、今は非常時だ。慣れない環境によるストレスは身体と精神を蝕んでおり、本能が容易く理性を凌駕するような状態にあった。

 眼前には年頃の、見目麗しい少女がいる。吐息が一刀の首筋を擽った。

 あぁ、もう我慢する必要はない――

 一刀が全てを脳裏の彼方へと押しやり、宋正に手を伸ばしたその時――

「北郷一刀っ!!!」

 怒声と共に部屋の扉が蹴破られた。小さな肩を怒らせて入ってきたのは、猫耳頭巾の少女、荀?である。

 荀?は部屋の中に押し入ると、寝台の上でもつれ合っている一刀と宋正を見つけた。信じられない物をみた、と言わんばかりに目を見開き、持っていた竹簡を振り上げる。

 身の危険を感じたその時には、身体の動きは速かった。一刀は宋正を寝台に突き飛ばすと、自分は反動を利用して床に身を投げ出す。

 直後、一刀の頭があったまさにその場所を竹簡が通り過ぎていった。空気を切り裂いて飛んだそれは、壁に当たって床に落ちる。運動になど縁のなさそうな細身の身体に似合わない、中々の球威とコントロールだった。

「危ないぞ、荀?。宋正さんに当たったらどうするつもりだったんだ」
「どうするつもり!? こっちの台詞よ!!! あんた、人の目がないのを言いことに功淑が妊娠するような卑猥なことするつもりだったんでしょう!!」
「いや、何もそこまでは……」

 先のテンションを思い出して見るにありえないとは言い切ることは出来なかったが、荀?の剣幕を前に正直に告白することは憚られた。下手なことを言ったらそのまま首を絞められそうだ。

 首惜しさに一刀が口を閉ざしている間にも、怒りに狂った荀?は持論を展開し、やはり精液男は死ぬべきだとか、実家に連れてきたのは間違いだったとか、孕ませ男にはどういう死刑が相応しいかというのを、驚くべきほどの理路整然さで喋り――いや、吼え続けている。

 流石は王佐の才と言うべきか。凡才とは頭の構造が違うのか、言葉が次から次へと出てくる出てくる。これが政治や経済を語っているのなら一刀も素直に感心出来たのだが、荀?の口から出てくるのは、表現するのも憚られるような罵詈雑言である。

 精神衛生のために半分以上は聞き流していたがそれでも、荀?がどれほど男が嫌いかというのは時間を追うごとに理解が深まっていく。

 放っておいたら力尽きるまで罵詈雑言を続けていたのだろうが、流石にそれは時間の無駄と判断したのか、寝台の上から復帰した宋正が、つつ、と荀?に歩み寄った。

「まぁまぁお嬢様、お戯れはそのくらいに」
「功淑っ! あんた大丈夫なの!? 孕まされてない!?」
「お嬢様という心に決めた方がいらっしゃる殿方から、お胤を貰うような不義理な真似は出来ませんわ」

 ほほほ、と微笑む宋正に、先ほど気絶した時の再現のように荀?の身体がよろめき……しかし、今度はしっかりと踏みとどまる。

「き、気持ち悪いこと言わないで! 想像して孕んじゃったらどうしてくれるのよ!」
「未婚の母というのも体裁が悪いですし、祝言でも挙げられては?」
「こんなのと番になるくらいだったら、死んだ方がマシよ!」

 荀?に喜んで結婚しますと言われたら、身の危険以上に世界の終わりを疑わなければならないが、そこまでストレートに言われると一刀も男だ、荀?ほどに脈がなさそうな少女相手と言えども多少は傷付くというもの。

 一刀がさりげなく落ち込んでいるのを宋正は目敏く見つけていたが、彼女の言葉でさらにヒートアップした荀?は後ろ手に一刀を指差して続ける。

「大体、これから世話になろうって家の侍女に迫るなんてどうかしてるってもんでしょう! 今からでもお母様にかけあって、官憲に突き出さないと!」
「それは誤解ですわお嬢様。迫ったのは私の方からですし、北郷様は悪くありません」

 宋正の言葉に、荀?が硬直する。気絶はしなかったが、言葉に衝撃を受けているようで金魚のように口をパクパクとさせていた。その顔が可笑しくて一刀が思わず噴出すと、それに宋正も釣られる。

 笑われたことで息を吹き返した荀?は、さらに顔を真っ赤に染めて宋正に詰め寄るが、荀?が何か言うよりも早く、宋正はゆぴをぴっと、荀?の唇に添えた。

「もちろん本気ではありませんよ。私には愛する夫と子供がいますもの。お嬢様もそれはご存知でしょう?」
「それはそうだけど……」

 と、荀?は何気ない調子で宋正の言葉を流すが、一刀は逆にこの世界に来て最大の衝撃を受けていた。

 人妻で! 子持ち! 

 昔は早婚早産だと聞いてはいたが、実際に目の当たりにすると信じられないという思いで胸が一杯になった。宋正を見つめる目にも、複雑な感情が混ざるようになる。

 そんな複雑な感情を一刀が持っているのを知ってか知らずか、宋正はしれっとした顔で荀?の怒りを受け止めている。お嬢様と使用人。どちらの立場が上かは考えるまでもなかったが、迫る荀?に宋正が物怖じする様子はなかった。

「じゃあ、どうしてこんな孕ませ男に迫ったりしたのよ」
「他の女性が迫っているのを見たら、お嬢様も危機感を抱くのではと愚考いたしました」
「何の危機感よ余計なお世話よ何考えてんのよあんたは!?」
「ちなみに私だけの発案ではなく、侍女一同の総意でございますよ? 皆お嬢様が大好きでございますから、お嬢様がいつまでも殿方にめぐり合えないのでは、と心配なのです」
「いいのよ私は結婚なんてしないんだから!」

 そう断言し切れる荀?は、この世界では珍しい部類になるのだろう。ふん、とそっぽを向いて臍を曲げた荀?に、宋正は困ったような微笑みを向ける。

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