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「ep.00 / 全ての始まり  chapter.00 / Towards Zero」
(第1部)[1/2]

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chapter.00 / Towards Zero / ゼロ時間へ

ep.00 / 全ての始まり

─────sec.01 / 夏の公園

海で囲まれた島国、日本は例年にない猛暑日を記録していた。
全国で900人を超える熱中症患者が病院に搬送される一方で、日本一暑い街を目指す地域すら存在する。

どうあがいても暑いのだから、いっそのこと売りに使おうという精神である。

ここ冬木市もその猛暑の例外に漏れない。
テレビニュースで記録的な暑さの報道、小まめな水分補給を促す報道が連日の様に続いている。

冬木大橋。

未遠川に掛かるその橋は、『新都』と呼ばれる区域と『深山町』と呼ばれる区域を繋げる重要な役割を担っている。
近代化が進む新都と歴史ある深山町の町並み、異なる趣の明確な線引き場所となっている橋である。

その傍には公園がある。
特筆するほど珍しいものではないが、近所の子供たちが集い遊ぶには不都合もない。

一通りの遊具は揃っており芝生も一部植えられて傍には未遠川が流れているという、とっておきの憩いの場である。
当然そこには子供だけではなく、その母親達も穏やかな一時を過ごす姿が見受けられる。

滑り台で遊ぶ子供、ブランコに座り親に背を押してもらって楽しむ子供、他の子供と一緒になって駆け回る子供達。
その親たちもまたそれぞれの時間を過ごし、交流を楽しんでいた。

夏真っ盛りにも関わらずこれだけ活気づいているのは、通う学校が夏休みの時期だからである。


そんな平和な一時が流れる公園でポツンと一人、ベンチに座っている子供がいる。
年齢は七歳前後だろうか、灰色の長髪が特徴の少女。

公園にいる子供達と遊ぶでもなく、この公園の景色を眺めているでもないらしい。
白いワンピースを着、麦わら帽子を被った少女はただ一人静かにベンチに座っている。

「─────」

と、ここで少女が立ち上がり、木陰へと向かって歩き出した。
炎天下の中、ベンチに座っているのが耐えられなくなったのだろう。

だが長時間座っていたために軽い熱中症になっていた。
足元がフラつき、こけてしまった。

「───いた……、あ」

腕に力を入れて立ち上がろうとした少女に手が差し伸べられた。
─────赤い髪の少年。

「大丈夫? ひーちゃん」

太陽の光の所為で顔はよく見えなかった。
けれどその少女にとっては見間違えなどない姿、聞き間違えなどない声。

「うん、大丈夫だよ。し……」

差し伸べてくれた子の手を取り立ち上がるも、再びフラついて倒れそうになる。
その少女の体を少年が抱きとめた。

「ひーちゃん、無茶しちゃダメ。ほら、あっちに行こう」

少女がこけないようにしっかりと手と肩を掴み木陰へと入る。
暑い夏ではあるが、木陰に入ると若干暑さは和らいだ。

「はい、これ」

そういって渡されたのは一杯のお茶だった。
少年が持ってきていた水筒に入っているお茶。

「ありがとう」

感謝の気持ちを素直に伝えてお茶を飲む。
こくこく、と可愛らしく喉を潤していく。

「大丈夫? お茶、まだ飲む?」

「ううん、もう大丈夫」

そんな少女を見ていると額から汗が流れているのが目についた。
おもむろにポケットに手を入れると、そこからハンカチを取り出して少女の汗を拭いていく。

「─────ありがとう」

少女は少年の顔を見て、向日葵のような笑顔でお礼を述べた。
それを見た少年もまた笑顔で応じていた。

木陰に移動してから少し時間が経った頃に少年が訪ねてきた。

「今日はどこ冒険しよっか」

どうやら公園にある遊具で遊ぶ気は無いらしい。

「どこでもいいよ? 一緒に遊べたら楽しいから」

少女もまた遊具で遊ぼうとは考えていないらしい。
普通の子供ならブランコなり、滑り台なりジャングルジムなりに遊びに行きそうなものである。

「それじゃあ僕の家にくる? 庭に向日葵が咲いたんだ。それ見ながらスイカを食べようよ」

「うん、それじゃ行こう!」

二人は少年の家に向かうため歩き出した。
手を繋いでまるで仲の良い恋人のように。

今日も夏の日差しは暑い。
けれど、二人一緒にいる彼と彼女にとってそれはあまり関係のない話のようだった。



─────sec.02 / 向日葵の咲く家

暑いアスファルトの道を、二人は手を繋いで歩く。

公園を出てから何分経っただろうか、もう公園の姿形も見えなくなっていた。
その代わりに目の前に少年の家が見えてきた。

二人はこの間もいろいろな会話をしていた。
昨日の晩御飯は何だった? 今日は何時に起きた? 今日はいつぐらいに公園に着いた? 

二人は明確に会う時間を決めている。
けれど二人揃って相手よりも早く会う場所へ着こうとするため、予定の時間よりも早く会うことになる。

一緒にいる時間は長くなり、遊ぶ時間も長くなる。

二人にとってそれは幸福の時間。
好きな相手と少しでも長い間、一緒に遊べるという時間。

だから二人は一日の大半を一緒に過ごしている。
二人の両親も旧知の仲なので、互いの家に行っても二人は歓迎されていた。

「ただいまー」

「お帰り。あら、いらっしゃい」

「お邪魔します」

家に入る二人。
少年の要望を聞いた母親が、宛がわれた子供部屋にスイカを持ってくる。

二人はそのスイカを食べながら、綺麗に庭に咲いた向日葵を眺めている。
勿論会話は弾んでいるようだ。

食べ終えたら次は眺めていた向日葵のスケッチ。
大きめの画用紙にそれぞれがそれぞれの向日葵を描いていく。

少年は絵を描くのが得意ではないらしく、悪戦苦闘していた。
一方少女は反対に綺麗にスケッチをしている。
大よそ七歳前後の子供が描いたとは思えないようなスケッチだ。

「ひーちゃん、上手だねー。いいなあ、ひーちゃんみたいに上手くなりたい」

互いのスケッチを見せ合いっこするや否や、少年は描かれたスケッチを絶賛する。

褒められた少女は嬉しそうに顔を緩めた。
好きな相手から褒められることは誰でも嬉しいものである。

しばらくして子供部屋に母親が入ってきた。
覗いてみれば、スケッチを終えた二人は眠ってしまっていた。

それを見た母親が夏用のタオルケット一枚を二人のお腹にかける。
二人の手は繋いだまま、安寝やすい顔で眠っていた。

夕方。
先に目を覚ました少女は隣で寝ている少年の顔を覗き込んだ。

「……ふふ」

薄らと笑い、ほっぺたを指でつつく。
何度かつついている内に少年が目を覚ました。

「おはよう、しろ君」

「ん…、おはよう、ひーちゃん」

寝起きではあったが笑って挨拶。
少女が幸せそうに笑っているのを見て、少年も無意識のうちに幸せそうに笑っていた。

その後部屋でテレビゲームをすることとなった二人。
スケッチの時とは打って変わってこちらは少年の方が上手だった。

「わぁー、負けたぁー」

くやしい、という言葉を言いつつも少女の顔は笑顔だった。

夜。
少女の親が車で少年の家に迎えに来た。

夏でまだ少し明るいとはいえこの時間帯を子供が一人歩いて帰るのは躊躇われたからだろう。
少年の母親が連絡を入れたのだった。

迎えが来たことに少し残念そうな顔をする少女。
しかし家に帰らないわけにもいかないので呼んでいる親に着いていく。

「ひーちゃん」

その背中に声がかかった。
反応して後ろを振り返ったら

「また、明日も遊ぼうね」

そういって笑顔で小さく手を振っている少年がいた。

今日という日は終わる。
けれどそれは同時に明日という日がまたやってくるということ。

明日は何をしよう? そう考えるだけで心は楽しくなっていく。
だから

「うん、明日も遊ぼうね。絶対に約束だよ、しろ君!」

親に手を引かれ車に乗り込み走り去っていく。
それが見えなくなるまで少年はずっと手を振っていた。

そんな我が子の姿を見た母親が話しかける。

「士郎、鐘ちゃんとは本当に仲良しだね。大切な人は大切にしなさい。泣かしちゃダメよ、いい? お母さんとの約束」

そう言って小指を出した。
指切りのつもりだろう。

「うん、わかってる。ひーちゃんを泣かせる悪い奴は僕がやっつけるんだから!」

いかにも歳相応の答えを返しながら小指を出して指切りをする少年。
かわいい答えに小さく笑いながら、母親もまた指切りをしたのだった。



─────sec.03 / 無機質な冬の街

夏とは打って変わり冬木市は一段と冷え込んでいた。
清潔で華美ながら無機質で無個性な新都のオフィス街が、より一層寒さを誇張しているようにも感じる。

当然同じ市内である深山町も寒さは同じ。
だがそんな寒い冬でも元気溌剌な子供達にとってはあまり関係がない。

雪が降ろうものならば、喜んで外に出てはしゃぎ遊びまわっている。
大人は交通機関の乱れや雪かきの手間で頭を抱えてしまうというのに。

所謂“子供は風の子”ということである。

そしてそれはこの二人の子供にも当てはまる。
違う点は少し遠出をして───といっても歩いていける距離だが───様々な冬の景色を見たり、他の子供が見れば頭を傾げるような楽しみ方をしているところか。

少し大人びた感じもするが、ピクニックと称して持参している食べ物を見るとやはり子供だということを思い知らされる。

オフィス街として予定され、着実に建設工事が進められている新都。
時折ある小さな公園はオフィスで働く人たちがたまにやってきて息抜きをする場所として最適である。

二人は歩く。
人気の少ない道から公園を抜けて人通りの多い道へ。

鉄筋と硝子とモルタルの現代建築の建設ラッシュが続く新都。
東京中心部のような都会、というわけではないが、小さな子供だけでいくには少し威圧されてしまう。

しかしこの二人には関係ない。
いつも一緒の二人、様々な場所を開いて回って景色を見てきた二人はこういう道も歩いていたからだ。

歩いている最中に少女が地面の段差に躓いてこけてしまった。
膝を小さく擦りむいた程度だったが、やはり痛いものは痛い。

これじゃいけないと少女に肩を貸すようにして歩いていく。
その距離は手を繋いで歩くときよりもさらに近い。

そうして先ほど通り抜けた公園に戻り、ベンチに座って休憩する。

「大丈夫?」

「ん………、ちょっと痛いけど平気だよ」

怪我をした膝へ目をやると薄らと赤くなっており、血が僅かに滲み出ていた。
残念ながら救急道具は持ち合わせていない。

傷を見ながら二人が会話をしているところに、人が近づいてきた。
それに気が付いた二人が視線をやると、そこには

「あら? 怪我をしてるわね、大丈夫?」

白い女性が立っていた。
白い帽子に白いコート、そして白い長髪に赤い瞳をした女性だ。

「大丈夫………です」

子供でも一目で外国人とわかる姿。
そんな見知らぬ人から突然声をかけられた少女は戸惑い、少年の服を握る。

少年もまたその見知らぬ外国人から守るように少女の前に立った。
二人は「知らない人にはついていっちゃいけない」と親から教え込まれている。

その相手が男性であろうと女性であろうと“見知らぬ人”には変わらない。
ましてやそれが外国人であるならばなおさらで、必然的に警戒心が高くなる。

しかしその声をかけた女性はというと二人の警戒を気に留めた様子もなく、近づいてきたもう一人の外国人に声をかけた。

「ねぇ、セイバー。絆創膏ってあったかしら?」

「は? 絆創膏、ですか。確か鞄の中にあったとは思いますが。アイリスフィール、どこか怪我をされたのですか?」

一言で表すとするならば「白」の女性が、同じく一言で表すならば「黒」の“男性”と会話をしている。
どちらも今まで見たことがない人物。

「いいえ、私じゃないわ。その……灰色の長髪の子。膝に擦り傷があるみたいだから。渡そうかなって」

「………なるほど」

黒の“男性”が少年と少女に視線をやる。
少女の膝には確かに擦り傷があった。

白の女性の意思を確認した黒の“男性”は、鞄の中から絆創膏を取り出して白の女性に手渡した。

「はい。これを膝に貼れば痛いのも直るわ。スカートが汚れることもないから安心して」

手渡された絆創膏。
受け取った少女は一瞬きょとん、とした顔になったが親切にしてくれたのだと理解した。

「あ………ありがとう、ございます」

少し緊張しつつも子供にしてはしっかりとした言葉使いで白の女性にお礼を言った。
手渡された絆創膏を傷口に貼る。

「ありがとう、お姉さん」

そんな光景を見た少年もまた素直に感謝の言葉を述べた。

「どういたしまして。貴方がこの子の騎士ナイトなのかな?」

「な…ない、と? は…はい、そうです………?」

問いかけてきた言葉の意味をイマイチ理解できない少年。
答えこそしたが理解できていない、ということは白の女性もわかったようだ。

「あら、ごめんなさい。ちょっと難しかったかな。けど、見た感じでは間違ってはいなさそうね」

少年の目線と合う様にしゃがみこんでいた白の女性は立ち上がった。

「どうかしましたか? アイリスフィール」

「いいえ。いろんなところを見て回ろうとして少し細い道に入ったけれど、正解だったなって」

「正解……、というのは?」

「ほんの数十分前の私とセイバーを見てるみたい、ってこと」

その言葉にまたもや頭を傾げる黒の“男性”。
当然ベンチに座っていた少女も、その傍に立つ少年も意味を理解することはできない。

「行きましょう、セイバー。まだ見てみたいところは沢山あるんだもの。それじゃあね、エスコート頑張ってね」

手を振って去っていく白の女性と同伴する黒の“男性”。
最後もまた二人にはイマイチ理解できない言葉を残して去って行った。

二人が視界からいなくなるまで茫然とその姿を眺めていた。

「なんだったんだろうね、あのお姉さん」

しかしそんな事を知る由もない少女が答えられる筈もなく

「多分………外国の人だよ」

と、誰がどう見てもわかる答えを答えとして返していた。



夕刻時。
今日は不思議な人と出会ったものだと二人会話しながらいつもの場所で別れる。

別れる時はすごく寂しい。
それが好きな人となら尚更である。

そして加えるとこれから少し、二人は会えなくなる。

「明日から遊びに行くんだよね? ひーちゃん」

「うん。……私はしろ君と一緒に居たいけど……」

「ひーちゃん。お父さんとお母さんが遊びに連れて行ってくれるんだから、ちゃんと楽しまなきゃダメだよ」

俯いて少し暗い顔をしていた少女に笑いかける。

「だから、帰ってきたらどんな事をしたか教えてね、ひーちゃん」

それは。
また帰ってきてから遊ぼうね、という約束。
赤い髪の少年が、灰色の長髪の少女に投げかけた約束。

「うん!お土産も持ってくるから一緒に食べようね、しろ君!」

だから少女も笑う。
屈託のない真っ直ぐな笑顔で。

そうして二人は別れた。
少しだけ会えないけれど、また必ず会って一緒に遊ぶ。

二人はそう心に誓った。



─────sec.04 / そして絶望がやってくる

少女が帰宅できたのは夜も遅い時間だった。
流石にこの時間から外へ出歩くわけにもいかない。

(だから、明日)

そう思って眠りにつく。
また明日からあの少年に会える、その事実で頬を僅かに緩めながら………。

***interlude In***

地響きがする。
どこかの家屋が倒壊した音だろうか。

視界は真っ赤に燃え上がり、あちこちから黒い雲が立ち上る。
走れるだけの体力はすでに無く、走れるだけの気力もない。

─────目が覚めたら家が燃えていた。

父親が部屋に助けに来た。
何が起きたかも理解できないまま、けれどこの状況は明らかにおかしいという認識。

急いでこの家を出ようと、少年の腕を掴もうと近寄った時だった。

地面が揺れた。
子供である少年にはそれだけしか認識できなかった。

近づいてきた父親に突き飛ばされ、その光景を目の当たりにする。
見たこともないような大きな瓦礫が、今さっき自分がいた場所にあった。

一瞬何も考えられなくなって、けれどそこから見えた腕が少年に事実を突きつけた。
下敷きになった人物の名前を叫び助け出そうとするが、腕はぴくりとも動かない。

そしてその行為も母親によって止められた。
自分が今いるこの家から逃げることとなる。

母親と一緒に家の外へ。
そこへ家の完全崩壊が少年へと襲い掛かった。

それが理解できるほど、今の少年は正常ではなく。
結果落下してくる家の一部から母親が身を呈して少年を助け出した。

─────そう。先ほどの父親と同じように。

「お母さん!!!!」

必死に助け出そうとするが、火の手が強く近づくことができない。
それでも助け出そうと泣きじゃくりながらも近づこうとする。

「逃げ……なさい……!」

それを母親は許さなかった。

「ここから遠くへ、逃げなさい!士郎はいつも街を歩いていたんでしょう!? なら、士郎なら逃げ切れる。だから……」

「嫌だ、いやだ!なんで、お母さんが、お母さんも……!なんで、なんで!?」

現状の理解ができない。
子供である少年にとって今まで何も変わらない一日だった筈。

いや、正確には少し外を出歩くのを控えなさい、と注意されてはいたが、大筋として変化はなかった筈だ。
それが夜眠って目を覚ましたら赤く染まっていたのだ。

「士郎!早く……逃げ、なさい。貴方が死んだら……鐘ちゃん、悲しむでしょ。お母さん、言った……よね? 泣かせない、って」

「─────」

ピタリ、と動きが止まった。
母親の言葉を聞いて脳裏に浮かんだのは、あの灰色の髪の少女の姿。

今、この絶望とはまるで無関係の様に笑っている姿が思い浮かぶ。
そして同時に、ある日母親と指切りをして約束した事もこの混乱の中で蘇ってくる。

「お母さんとの……約束、守れない……? 士郎」

「約束は……守る、お母さん」

泣きじゃくりながらも母親の言葉を理解しようとする。
嘘つきにはなるな、なんてどこの家庭でも言われそうな事を思い出しながら。

「なら─────ここから逃げなさい。鐘ちゃんの家は、わかるでしょ……? 少し、遠いけど……士郎なら預かってくれる」

「でも、お母さん、お母さんが……!お父さんも……!!」

火は確実に迫ってきているのに、それでも動こうとしない。

否、動ける筈がない。
目の前で自分の親が死にかけているのに、どうしてそう簡単に動けようか。

この間にもどんどん逃げ道が失われていく。
これ以上脱出が遅れようものなら、少年も家の中で焼け死ぬだろう。

そんな事だけは決してあってはならない。
体の半分は家の燃え盛る瓦礫で潰れてしまっている。

そこで分かる。分かってしまった。
もう、自分にも先はない、と。

だからこそ。
だからこそ。
未来ある自分達夫婦の、たった一人の大切な息子だけでも。

───助かってほしいと、切に願った。

「士郎! 早く行きなさい!!」

涙を溢しながら。
こんな恐怖でいっぱいになる状況下でありながら、それでも母親である自分を助けようと頑張った幼いその勇姿をしっかりと目に焼き付けて。
最愛の夫と、生涯自慢できるであろうその息子との記憶達が走馬灯の様に目の前に現れて。

彼女の視界は赤く染まった。


母親の最期の叱責。
それは少年が今まで聞いたどれよりも強い口調だった。

耐えきれなくなった少年は出口に向かって走り出す。
その間にも火の手が襲い掛かり、母親の場所を包み込んだ。

だが、振り返らない。
振り返るな、走って進めと言われたから。

家を出て見慣れた筈の街を走る。
その街はあまりにも知っている光景からかけ離れていた。

ただひたすらに走り続けた。
涙を流し、恐怖に蝕まれ、熱さで朦朧としながらそれでも約束を守る為に前へと進み続けた。

だがその間にも落下物の障害にあったり、瓦礫に躓いてこけて血が出たりと体はボロボロになっていた。
走れるほどの体力もなくなりただ茫然と歩いている。

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